母校刈谷東中学校の体育大会に来賓として出席しました。
前日までの天気予報は「雨マーク」のみ。開催できるかどうか心配していたのですが、今日になるとその天気予報も改善されており、無事開催することが出来ました。
東中の校訓[プリキュー精神]で頑張れ!
その後、刈谷市産業振興センター小ホールにおいて行われた[刈谷市戦没者追悼式]に出席しました。
今年もまた、遺族連合会会長の清水様の[追悼のことば]に感動しました。故人に対して「父さん」、自分自身のことを敢えて「僕」と表現して、亡くなられたお父様に対する思いを自らの言葉で語られ、思わず目頭が熱くなりました。
恒久平和への祈りが少しでも多くの皆様に伝わることを願って、清水様のご了承を得て[追悼のことば]全文をこのHPにも紹介します・・・
追悼のことば
本日ここに、刈谷市戦没者追悼式が、挙行されるにあたり、戦没者遺族を代表して、謹んで追悼の言葉を申し上げます。国を守るために、家族を守るために、尊い命を捧げられましたご英霊に対し、心からご冥福をお祈り申し上げます。
私のアルバルの最初のページには、昭和十八年十二月「保夫、生後三か月」と書かれた写真があります。正月が近づき、晴れ着を着て、よど掛けを掛け、毛糸の帽子をかぶり、口をとがらせている写真です。その横には「昭和十九年四月、生後六か月」、椅子に座り、春らしい衣裳をまとった写真です。
これらの写真は、戦地の父さんに僕の様子を伝えようと母が撮った写真です。父さんは見てくれましたか。写真を見てどんな思いを抱き、どんな将来を描いてくれましたか。
次のページには、昭和十九年お盆の写真があります。長椅子の上で背もたれに手を当て立っている姿です。残念ながら父さんは、この写真を見ることはなかったと思います。父さんはこの時既に負傷し部隊から離れており、十月に死亡しているから、手元に届くことはなかったと思うし届いたとしてももう見ることはできなかったと思う。
父さんがこの写真を見ていたら、どんな言葉を掛けてくれましたか。僕は父さんのことばを聞きたかった。
僕の長男が幼稚園のとき、先生から「大きくなったら、どんな人になりたいか」と尋ねられた時、長男は「お父さんみたいな人」と答えたと人伝えに聞きました。僕はうれしかった。そして息子がそういう目で僕を見ているのかと驚いた。
僕は父さんにそうした思いを寄せることなく育ちました。僕は父さんがどんな人だったのか知らない。身長は?、体重は?、どんな声をしていたのか。父さんとの「思い出」も持たない。
戦争は人の命を奪うだけでなく、愛しい人同士を引き離し、思い出をつくる時間をも奪ってしまう。父さんが遊んだであろう山や川。汗水流し一生懸命に耕してきた田んぼや畑、すべてを焼きつくし破壊してしまった。生き残った私たちからは、家も食料も着るもの、すべてを奪い取り飢えと病を与えた。
戦争は人間が行う最悪の行為です。どんなことが有ろうと絶対に戦争を起こしてはならない。このことはご英霊が身を持って示された教えであり、私たちがどん底の生活の中から学んだ知恵であります。私たちはこの教えと知恵を持ち続け、二度と悲しい歴史を繰り返さないように努めなければなりません。
刈谷市は毎年、市長様を始め各会代表のご臨席を賜り、厳粛に追悼式を挙行してくださいますことは、ご英霊が示された命の大切さ平和の尊さを次の世代を生きる人々に伝える場となり、ご英霊の死を無にしない証であります。私たち遺族は誠にありがたく、関係者の皆様に心から厚く御礼申し上げます。
結びに、いま一度ご英霊のご冥福と、ご英霊のご加護のもと本日ご臨席を賜りました皆様方並びに遺族各位のご多幸とご健勝を願い、併せて祖国日本の平和と発展を祈念して、追悼の言葉と致します。
令和元年十月八日
刈谷市遺族連合会 会長 清水保夫