愛知県議会議員 神谷まさひろ

東陽町ホンネの日記

2021年5月25日(火)
尊敬するひきたよしあき先生のコラムです。この問題について様々な意見がありましたが、このコラムを読んで腑に落ちました。

【日本と日本人】

日本の感染者数を各国に比べて「さざ波」
緊急事態宣言を「屁のようなもの」
と言い放っていた高橋洋一氏が内閣官房参与を辞任した。

病院に入れずに苦しんでいるコロナ感染者がいる中で、「さざ波」
店を閉められ、酒を販売できずそれがいつ終わるのかもわからずに苦しんでいる人がいるところで「屁のようなもの」

私たち庶民からするとどうにも理解できない発言だ。しかし、これを理解する人たちもたくさんいる。それなりの理由もある。様々な発言を読んでみて少し感じたことがある。日本と日本人ということだ。

高橋氏は、元は大蔵省の官僚。ずっと「日本」を尺度に働いてきた。この国を運営するにあたり、予算をどう割り振るか。その収入をどう確保するのか。常に国家としての日本、海外と比較しての日本という単位で見てきたに違いない。

しかし、その「日本」という単位は「日本人」という人々が集まってできているということをどこかで忘れたか、無視したか、面倒なので考えなかったか。

なるほど日本という単位で考えれば彼の発言にも一理あるものもある。ところがそこに「日本人」という視点で考える気持ちがない上に、ネットが結構得意だし、顔出しパフォーマンスもお好きなようだ。

ついつい「私は国家・官僚組織を熟知している」という態度が滲みでる。そして「日本」の側から「さざ波」「屁のようなもの」と言ってしまうのだ。察するにご本人は、間違ったことを言ってないと思っているはずだ。確かに間違っていない。あなたの視点からのみ世の中を眺めれば。これは高橋洋一氏だけの問題ではないと思う。

オリンピックについても「日本」から見た開催是非と「日本人」から見た開催是非は違うのだろう。「日本」としてはやめられない。「日本人」としてはやめてほしい。そんな分断が起きているように思う。

ネットにおける様々な分断も、「日本」で語るか「日本人」で語るかによって生まれるのではないか。

昔はよく「国家国民のため」と政治は使ったものだが、最近はとんとみない。「国家」のためと「国民」のためがわかれてしまっている。さらには、国家も国民も考えず、「自分」と「自分に従う人」のために国が運営されるとなるともはやこうしたこと考えることすらアホらしい。いくら考えたところで、さざ波も起こせない。「屁」にもならない。

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